2009/10/16

うららかな小春日和に

初めての東京生活は16歳になりたての高校一年の時だった。中央線の西荻窪駅から徒歩10分くらいか、バス停だと東京女子大の一つ手前、何せ当時、高校が東女の真向かいで、西荻窪と吉祥寺とのちょうど中間当たりの杉並区善福寺という界隈にあった賄付き下宿に1年間お世話になった。もう38年も前の話。上京したての少年にとっては、日曜日に新宿や神田の本屋街、たまに秋葉原の電子部品屋をめぐるぐらいが唯一のお楽しみ、そしてたまに出張で上京した父に、宿泊先の新宿のホテルか、紀尾井町のホテルで、天ぷらやしゃぶしゃぶ何て大人の食事をさせてもらったり、年に2〜3度、東京にいた伯父に誘われて、ご飯をご馳走になっては、その帰りに「何か欲しい物はないか?」と、必ず少々値が張る物でも気前よく買ってもらった事を思い出す。きっと羽振りは良かったのだろうが、一人やもめの叔父も、休日ひまがあれば、下宿生活の甥っ子が不憫に思うのと同時に、僕ごときをかまう事でひとり身の寂しさを紛らわしていたのだろうけれど。もはや叔父も父もみーんな他界してしまって久しい。だから稀な所用で銀座1丁目界隈を歩くと、高校のワンゲル部に入ったばかりのころ、まだ銀座1丁目にあった好日山荘で登山靴を買ってもらった小春日和が蘇る。下宿は朝晩2回の食事は付いていたが、電話も風呂もない4人家族の民家。その家の余った1階の暗い角部屋の4畳半では、肩身も狭く出入りも不自由だった。高2からは、叔母の家に近い井の頭公園の前に出来たての学生アパートに引っ越し、大学生たちにまじったたった一人の早稲た高校生は70年代初頭をジャズに目覚め大学時代は西船橋にあった親所有のマンションに首尾よく住まわせてもらい都合10年を過ごした。

バス停は2007年10月、吉祥寺での仕事にかこつけて、わざわざ吉祥寺駅前で1泊した翌朝の18日、35年ぶりに散策した時の写真。懐かしさをなぞるなんて、歳をとった証拠か。その後、西荻窪駅まで歩き中央線で帰宅した冷秋の小春日和。

栄通から出て見る伊勢丹本店 09/10/16/

大学を出て百貨店経営企画室に転勤後、予定通りIT社会の先取りとばかりに「札幌で暮し、東京で稼ぎ、世界で遊ぶ」なんてスローガンの元独立。以後、想定外の強烈な事件に遭遇して、再び48歳で上京を余儀なくされるまで、20年近く札幌を拠点に北海道を庭のように過ごした。だから北海道には、有形無形の僕の足跡、仕事が多数残っている。札幌の人ならたぶん必ず行ったことがあろう「PARADEビル」や「ホールステアーズカフェ」。北海道ガスのショールーム「SAGATIK」、千歳空港の売店やデパ地下でお馴染み「北菓楼」、ネーミングも第一号店も若き日の仕事だ。もうあげればきりがないけれど。札幌円山の北海道神宮前から、犬とともに東京原宿の明治神宮前に越して6年。そもそも仕事柄東京の街は詳しいけれど、いつも新宿伊勢丹の裏界隈、新宿3丁目と2丁目の境あたりが和むのだ。

栄寿司本店の一通と突き当たりの伊勢丹 09/10/16/

まるで札幌の三越から丸井今井の中小路、薄野の手前の3条通りの裏道あたりの匂いと佇まいがここにあるから。名店とはほど遠いけれど職場の裏小路にある栄寿司本店の一通は、三条通と二条通の境にある金寿司を彷彿させられて、ちょっとしたホームシックなのか、大都会の人ごみにまぎれても、どこか見慣れたのどかな風景とかぶるのか、妙に安心感を覚える。東京らしい風景も店も遊びも十分知り尽くしているのに、この狭い界隈にまぎれると、何だか故郷にいるかのように安心する。それはたぶん、地元原宿・表参道なら若いリアルストリート&モードな業界筋。銀座は風采のいい地元店主とめかしたコンサバ女性。六本木1丁目界隈なら超高学歴な今様金融&IT族。永田町〜霞ヶ関なら役人&秘書+地方の陳情団。どこの街にも特定のスタイル、中心年齢、雰囲気に偏りがあるが故、自分が入ると一人浮くというのか、居場所に困り馴染めないから居心地が悪い。しかし新宿のこのあたりは、地方都市のように密度も薄く、様々な職種、階層、年齢にばらつきがあって、特定の人種がなく身のとけ込み具合がいいからなのだろう。そんなわけで材料探しに世界堂まで行った帰り、うららかな小春日和に誘われて彷徨ってみた。孤独が癒された気になった一瞬。風もなく陽光も弱日とはいえ、Tシャツ1枚でも、長袖でも、上着姿でも、気持ちよく過ごせた金曜の日昼下がり、太陽は疲弊した人の心まで、じんわり温めてくれる唯一の友だった。通算、札幌30年、東京20年、その他、今のところ地球内各地4年。片道切符の人生の旅は、この先どこへ行くのだろう。ちゃんと目的地まで時間内に、たどり着ければいいのだが。

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