2009/08/22

すしくい

54年にして未だ夢叶わず、はなたれ小僧の志は道半ば。わずかな名誉とたくさんの不名誉に不義理をこさえ、たくさんの支援をうけるも、もりだくさんな迷惑をかけちらかして、夢の結実と恩返しに今日も現在進行形。否応無しに減速するスピードに苛立、見えてきた残り時間に焦りながら。。。人生は夏休み。あんなにたくさんあったはずの時間。あれもして、これもしてと、夢を描き計画も立てたのに、カレンダーを見れば、あと1週間? あれも出来なかった、これもしなかったと、手つかずの宿題、未完の夢の山に埋もれ、遠い頂を眺めてはため息が出るばかり。人生は本当に長いようで短い夏休みだ。

自画自賛と呆れられようが、たった一つ胸を張れる信条がある。27歳で独立して以来、どんな仕事でも、だれと会っても、いつもこれが最期、遺作であり、遺言だと思い、人と接し仕事と接した。確信犯として、いつもこの仕事で、今の別れで死んでもいいと、嫌われようが喧嘩になろうが誤解を恐れず言うべき事を伝え、やるべき事をまっとうした。あらゆる障壁と戦い妥協なく思念を貫いた。孤立無援、孤軍奮闘を顧みず、抵抗勢力とファイトした。だから、完成した商業ビルに人が押し寄せ、完成から20年が過ぎても立派に生き続け、イベントは主催者の期待も想像もはるかに越えた集客と収益をあげ、記録を作り記憶を残し、ブランディングで企業は商品は再生されたと、裏方力を豪語できる。誰も見た事がない、誰も経験した事がない、未知の未体感の事件を起す。そのプランは提案時に全員が異議を唱え反対する。その道の経験者たちは口を揃えて「そんな事は聞いた事がない見た事がない」「経験がないから無理だよダメだよ出来ないよ」「あんたは何も知らない、こっちは経験者だ」「第一、先行事例がない」と、猛反対をくらう。挙げ句に「他社もやってない」「他者に聞いても、やはりみな反対だ」と。何のためにプロジェクトがあるのかさえ見失い本末転倒してしまうのがクライアント、世の常。僕の、まだ誰にも見えない未来を売る商売は、いつも、この知っていると豪語する有識者との戦いだった。しかし万人が「これはいい!」と賛成するプランなら誰でも作れる。出来上がったモノに鮮度などない。それは誰でも出現する前から想像のつくモノ誰もが知るモノだから。20年は決して生き残らない。6000年来のピラミッドに始まり、2000年のコロッセイム、万里の頂上、1300年の東大寺、150年のエッフェル塔、100年のエンパイヤーステートビル。数千年、数百年と生き残るモノとは、当時の異常。理にかなった奇想天外。非常識ばかり。常識はいつも先行事例などない非常識の後を追うものなのだ。未来は非常識の中にしかないと歴史は教える。だから僕は、人生の彩で、ご縁会って出会った仕事も私事も、次の一瞬、明日を知る者が誰一人いない一期一会の人生だから、誰に対してもどんな仕事でも熱く重く全開で対処する。最期の一瞬まで完全燃焼でありたいと。遺作と遺言だと思って。

そんな大バカな54年で、建築で取った賞よりも、広告で取った賞よりも、嬉しく誇らしいこの上ない栄誉が、まだ独立間もない20代後半で通い始めた「すし善」で、店主島宮勤氏に「あんたは本物の鮨食いだねぇー」と言われた事だ。この先どんな高名な名誉を頂くことが、もしもし万が一あったとしても、氏の褒め言葉が我が人生、最上の誇り。生きた証。ミシュランの覆面がどう評価しようが、評論家がどう語ろうが、島宮勤氏は、日本の食文化史で数百年におよぶ鮨の系譜の最先端最高峰と確信するから。

味とは遊び。美味とは理にかなう遊び。純粋な水H2Oには魚住まず。照りも艶も味もない。美とは奇麗の真逆。醜い怖い険しい歪(いびつ)が内在する紙一重の加減で生まれる絶妙なアンバランスのバランス。奇形の産物だ。人間だけが知りうる美味とは味覚だけにあらず。存在自体の佇まい、振る舞い行為、その前後の時間の経過、その全てにその一瞬に味があるもの。味がある演技。ハンドルの遊び。味がある人。と言われる通り。レシピを超えた、何か、もう一つの不思議が加われなければ生まれない。奇麗には上手には精巧なマニュアル通りにすれば誰でも到達できるが、美味しいはそうはいかない。練習しても経験を積んでも到達しえない代物なのだ。遊びと味という奇妙な感を心得なければ。それは、はっきり言えば天性、生まれ持ったもので、残念ながら練習しても追いつけないのだが。1番とはそういうものだ。島宮勤氏の鮨は、無骨で歪。決して奇麗じゃない。お手本から最もかけ離れた姿形。しかし、座りがいい。見栄えがいい。味がある佇まい。そして驚きは味覚だ。切れ味最高の包丁でどう切ったら切り口に素材のテクスチャーを残せるのか?舌触りに口当たりに食材の繊維、質感を残す芸妓。まるで、ピカソの絵、魯山人の器。遊びがある味があるとはこういう事だと、体が教わる無形文化だ。

すし食いとは、極端に言えば一言も会話する事なくただひたすら、職人が頃合い見計らっては「握る差し出す」、客が「つまむほうばる」、ライトが当たる文字通り檜舞台のカウンターを挟んで繰り広げる、まるで餅つきの間(あい)の手のようなリズム。まるでライブなジャムセッション。その呼吸の美味しい事。食べ終えた至福は、味と言う味覚を超えた最高の共演に酔いしれるエクスタシー。鮨というライブな食を堪能する者をさす。職人は予約の段階から流れを構成しネタを仕込み、客が顔を見せたら、その具合を察し、客のテンポに食のリズムに場のタイミングに臨機応変、芸妓を尽くす。カウンターは舞台。鮨は役者。流れはDJ。職人と客はジャムセッションの共演者。


食材がいいのは当たり前。仕事がいいのも当たり前。頃合い見計れるのも当たり前。たゆまぬ研究、創意工夫も当たり前。器も道具も家具調度品も空間も良くて当たり前。しかし、足袋を見よ。カウンターに立つ直前におろしたての真新しい白足袋。そして、カウンターに居並ぶ長年の上得意客から今日、初めての一見さんまで、分け隔てない丁寧な応対。すべての我がままを上手にあやし、どの立場の客にも和みと得意を誘う物腰。さらに、見送りから店を出て至福の余韻を冷めずに家路まで残せる空間と環境。そんな、鮨を食を知る店がいったい東京に何件あるのだろうか?三ツ星に?しかも築地で最高値の本マグロを銀座にも譲らず競り落とし、その半額で供する。そんな、品がちがう物がちがう、店の職人の意地と見栄は、毎年ワシントンの桜祭りで、米国の政界、財界、各界の要人たちに振る舞われている。島宮勤氏の無骨な歪な味ある"すし"が、日本を代表して。僕は28才から約20年、ほぼ毎日、下駄履きですし善本店のお世話になった。日によっては昼も夜も。家が建つほど食べてきた。本当に、連れがいない限り予約の電話と入店時の挨拶ぐらいで、一言も交わさず食して帰ることが日常だった。財布も持たずに車のキーひとつで。お題はツケ払をさせていただいたので。催促なしの未払いのお代を早く払わなきゃネ。(苦笑)

すし善」とは。

1 件のコメント:

tesat さんのコメント...

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