2009/10/05

ホームシック

大学を出たての30年前、建築の大先輩H氏から「建築家は10年。彫刻家は20年。」と、とりあえず食えるようになるまでの目安を聞かされた。彫刻家でも「金属」「木」「石」では、気軽さ需要からしてさらに時間が違うと。石の彫刻家がモノになるまで一番時間がかかるという話だった。当時から大先輩H氏は、北海道 美唄出身で芸大卒業後イタリアに渡りミケランジェロの石切り場を拠点に彫刻家となった安田侃(かん)さんを支援していた。90年代に入って俄然、日本でも名が浸透した侃さんは現在64歳。先輩はやっと才能の片鱗が、ローカルな個展活動やメディアで取り上げられ始めた34歳ぐらいから応援していたことになる。今や日本が誇る世界の彫刻家だ。

数年前、犬の夜散歩帰りに毎日立ち寄っていた馴染みのカフェが家の隣にあった。数席のテラス席があったので夏冬関わらず散歩帰りに一服できたそのカフェは、若い女子ふたりで夜更けまで切り盛りしていてなお重宝。しかも若いアーティストの作品を不定期ながら店内で紹介していて、楽しい話題と可笑しい人達に事欠かない店だった。ケント・フリックとも深夜ここで知り合ったご近所さん。お互い裏のマンションどうし深夜のコンビニ仲間だ。

そのカフェである夜、まるで子供の絵のような渦巻画の欲の無さ「無心」にすっかり魅了されてしまった。無欲は迷いが無く潔く気持ちいい。ストレートに琴線に響くボディーブローだ。自然界の空や雲や月や雨の雫に感動するのと同義で、意志のない結果は美しい。コンピューターを駆使したデジタル画像全盛の時代に、無垢な衝動に突き動かされた粗野な線画は、見る度に僕の想像力を喚起する新鮮な琴線画となって、ぐつぐつとコラボプロジェクトが沸きたった。あまりにもな純朴さが飽きることなく面白がれるので、僕はカフェオーナーからそのアーティストを紹介してもらった。HAZUKI君というそのアーティストは、北海道 帯広出身で服飾デザインを短大で学び、卒業後はダンスとバイトを掛け持ちながらゲリラ的に作品を露出していた弾丸娘。僕はただひたすら思いのままに描き続けば、いつかモノになりそうな予感がして応援し出した。当時、彼女のボーイフレンド アルノ君は日本オタクなスイス人の映像クリーター。彼もまた近所のデザインフェスタでバイトしながら個展を開いていた。そんな折り、ふたりがコラボする個展がデザインフェスタであると誘われてオープニングに出向いた時、会場で芸大生の木彫家男子を紹介された。坊主に近い短髪にヒゲ、そして複数の耳ピアスにタトゥーの出立ち。まさにIT革命後の東京リアルストリートな彼は、奈良の1000年級寺社仏閣を丹念に回り仏像を始めとした古(いにしえ)の芸妓を勉強している今様木彫家。伝統を未来的に進化させそうな彼の風貌に僕は思わず青田刈りだ。早速クリエーターリストにブックマーク。そんな未来が頼もしい日本マニアな20代アーティストたちにワクワクだ。人生で一番楽しい事は未来。人は明日がわからないから不安になるが、明日がわかっていたら人は人生に絶望するだろう。生きて行けなくなるだろう。わからないから楽しい。わからないから生きている意味がある。そうそう追記すれば、ハズキ君とアルノ君は翌年、彼の故郷スイスでめでたしめでたし寿と相成った。そして今月中旬には結婚後始めて故郷帯広に凱旋帰国との事だ。

photo&dwaing HAZUKI

先日、ミクシーの新機能「ボイス」(気軽な独り言つぶやき機能)に、北海道は道北で彫刻家をなりわうマイミクさんが「ちょっとホームシック」と一言つぶやいていた。帰省していた川崎の実家で、老いた父親に代わり廃業した町工場の後かたずを手伝い再び北海道の自宅に着いた直後のつぶやきだ。僕はすかさず「北が?東が?」とつぶやき返したら「弱って来たけれど気丈にふるまう親とけんかもなく過ごすと色々振り返りホームシックですかね。北にくるとそれはそれでいいんだけれども」と胸の内を明かしてくれた。思春期、青年期、そして新旧交代期、ふりかえれる時が溜まらないと出てこない郷愁。言葉に交わせなかった積年の想いや賑やかな家族との団らん、自分の過去を呼び覚ます思い出の場所や物にふれて「家に帰りたい」とか、「あのころに戻りたい」とか、そんな里心、望郷ではない「ホームシック」だ。誰しもが時を積むと感じる反芻うする愛おしい自分史の「時間」。共感した。その彫刻家 長澤裕子さんは、川崎で生まれ育ち武蔵美彫刻科を卒業後はパリを皮切りに東欧、欧州、世界各地、日本各地で制作・発表の武者修行を積み、現在は道北に居を構え農家と彫刻家生活をする熟れ時まじかな才能さん。


思えば思春期の15歳、自分の強い意思で親元離れて40年。あっという間だった。単身上京して4畳半一間の下宿生活から始った高校時代も、運良く親が所有していた3DKのマンションでの一人暮らしだった大学時代も、60年代後半から70年代にかけて世界中で沸き起こったステューデントパワーの熱波に、少年は好奇心に突き動かされて一心不乱、興味に向かって夢中で過ごした時期だった。だから「家に帰りたい」というホームシックにかかった事が1度もなかった。そしてそんな好奇心を満たす少年・青年期を経て、生涯を貫きたい自分の使命を確信し、どんな仕事で身を立てるか、定まった大志をもって大学を卒業し就職した。そして計画通り「北海道で暮し、東京で稼ぎ、世界で遊ぶ」をスローガンに、30を前にして独立。やがて来るだろうと夢想した情報革命 IT時代を見据えてのライフスタイルを目指した。すべて確信を持った自分の強い意思だった。43歳で初めて授かった待望の子供を亡くす予期せぬ事態が遠縁で離婚。生活にも仕事にも失意し自暴自棄を経て再び48歳で都落ちした東京暮らしを余儀なくされた6年前、僕は初めての「ホームシック」に狼狽した。それは自分の意思ではない不本意な境遇と、否応無しに受け入れざる得ない人生の節目に遭遇し「原点」15歳で自立した精神の故郷を見失ったからだった。僕のホームシックはデザインに目覚めた自分を知ったあのころ。目を輝かせて夢中で過ごせた幼年・少年・青年期の眩しい季節。砂漠の熱風シロッコの季節。これがあるから行き着く先までやれるのだろう。

back to the future>> 写真は1978年〜23歳から26歳ごろ

2 件のコメント:

deco さんのコメント...

“ホームシック”
話題にあげていただいてありがとうございます。
時空、場所、「どこに」でもなく「どこか」でも
「いつに」でもなく「いつか」でも“ホームシック”ってなる時はなりますね。いつもではないけれど、疲れてるときなのか、一区切りの時なのか。
見渡せる余裕のある時なのか。
まだまだ疑問ではありますが。

追伸:
細かい事ですが道東ではなく道北です(すみません(;´ー`))

stimuli さんのコメント...

いつも美味しそうな天恵の作品、畑の収穫物を拝ませてもらってます。都心では考えられない贅沢な時間によだれを垂らしながら。勝手にURLも名も書き込んで失礼しました。すべてが真逆な東京と北海道の使い分けが、心にも体にも、仕事(経済)にも、心地よい(必要)な感じがわかるので、羨望です。僕などたまに細胞がキーンと張った寒風を欲しがる時がありますよ。すかすかなスペースが欲しくなります。笑

 
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