しばらく見かけなかった大原麗子さんの突然の訃報は「すこし愛して、なが〜く愛して」をリアルタイムで体験した世代にとって、知らぬ間に過ぎ去っていた20年の時を感慨深く遡らずにはいられない予期せぬ事件となったのではないだろうか。当時20代なら今は40代の、当時30代なら今は50代の、毎朝、鏡で見ているはずの自分史とあらためて向かい合う。8月6日、夕方6時台のニュースをぼんやり眺めていたら、画面に臨時ニュースのテロップが流れ、番組終了間際にその第一報をアナウンサーが伝えた。僕は慌ててネットのニュースで再確認。そして、それまでタイプしていた企画書の手を休めてブログを書き始めたのだが、6日の記事の通りで、前夜からの貫徹疲れか不覚にも爆睡してしまい翌朝、目が覚めてから再び書き足して投稿した。たぶん多くの中年男子のブログでも同様なタイトルで前夜から投稿が相次いだとは思っていたが、UP直後からアクセスが一気に上昇しだし、あっという間に100を越え、日付が変わるころには200件をゆうに越していた。そのほとんどが検索エンジンからで、mixi にリンクはしているものの、先代たちに言わせれば僕らは「戦争を知らない子供たち」であるように、80年代生まれが多いマイミクさんたちには、あの名台詞は存在しなかった。わかってはいたけれど、今を生きる20代の無反応は、悲報をさらに悲しいものにしてくれた。その検索キーワードは《 すこし愛して ながく愛して コピーライター 》。みな一様に、人生のど真ん中で射抜かれた生涯忘れえぬ名文句が、一体誰によるものなのかを知りたがっていた。あんなに有名な時代の言葉。まるで彼女そのもののような台詞。なのに今まで作者不明とは不思議な話。まるで時代に区切りをつけるかのように息せき切って確認の検索をしたのだろう。みんなが探した、そのコピーライターが、よもや僕の義理の兄になり損ねた村山孝文さんだったとは。
飯島愛ちゃんの孤独死。川村カオリさんの生き様。大原麗子さんの孤高の終演。先ほど逮捕された酒井法子の栄光と転落。人生の彩。袖触れ合うも何かの縁。みな何処かで微妙なご縁があった人たちばかりだ。一期一会の人生に、思いはさかのぼる出来事ばかり。思わぬところで突きつけられた、時代の節目、自分の節目に、今「僕」に立ち返る。少年が青年になる前夜「スタンド・バイ・ミー」の季節。あと1〜2年もすれば、つるんとした肌はひげ面に、高い声は声変わりが、ひょろっとすらっとした体形は無骨に様変わりする直前。もう戻れない懐かしい少年最後の一瞬、昭和40年初頭の夏休みに。その、長いようで短い夏休みのような、人生の過ごし方と終わらせ方に。。。
大好きな岡本太郎の「僕」。くったくない少年が頬杖ついて、両親に挟まれて建立されている。生前から作られていた太郎のお墓。好奇心満々。満面の笑みで。永遠に少年のままに。思えば、大人の乙女の大原麗子はそんな少年のような笑みだった。【追伸】旭山動物園に行かれる機会があれば、ぜひ「お地蔵様」にお立ち寄り下さい。「僕」がお堂にいますので。
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