2009/07/11

完熟のヴィーナス

50を目前にした48のころ、あぁー これがラストラブか、と、すべての細胞が歓喜する甘味な恋におちた。物心ついた10代のころから、ひと十倍さまざまな恋を経験してきて、その時、初めて官能という頭で知った文字が、細胞の分子レベルで感じ取っている事にうち震えた。その瞬間、自分という生き物のピークは、45〜6ではなかったかと、よぎった。あらゆるスポーツ競技で、その選手が、ある日 突然、他人には決してわからない引退を感じる瞬間がある。それと同じように、人の一生のライフサイクルに、すべての能力のピーク時があって、やがて急速に衰えていく。かつて、10代のころの成長期には「わぁ〜大きくなったわね〜」などと1年ぶりに会った伯母さんに言われて初めて、自分の成長の実感を得るのとは逆で、すべての身体能力がピークを越し衰退していく過程は自覚できる事を知った。

命の正体は命のリレーだ。生きているものは、その種の限られた命の時間(寿命)に、命をつなぐ(使命)の為のみに生きている。いや生まれてきた。あらゆる命はその寿命、生まれてから死ぬまでのライフサイクルに、たわわに実りかぐわしく熟し命をつなぐピークがおとずれる。そして熟せば朽ちて土に返る。せいぜい生きて100年の生き物、人間は多少の個体差はあるだろうが、女は閉経へのカウントダウンが聞こえ始める30の後半ぐらいから、その間際の40代始めにかけて、当の本人の自覚がなくても、まるで熟した果実が、さわるまでもなく やわらかそうに 艶っぽく あふれんばかりの香りをもらし甘味な果汁で魅了するように、おもわず手が伸びるふれたくなるような官能で誘う。仕草、いでたち、佇まいが。だから女40の男50のイブに出逢った雄と雌は本能のおもむくままに時をわすれて貪りあう。


なぜ、先人たちは必ず、ヴィーナス 裸婦像を描き残すのか。そのヌードは熟れた果実のように肉欲的なのかを身をもって知った。遅ればせながら、エロスとは命の根源だと。写真は、バロック期のスペインの画家 ディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez) が50の時に描いた「ロークビーのヴィーナス」(鏡のヴィーナス)1648年ごろ作 ロンドン ナショナルギャラリー所蔵。国王から美術品の購入という特命を受けて訪れたイタリアで、命令を無視してまで1年も身を隠し描かずにいられなかった、ベラスケスの現存する唯一のヴィーナス 裸婦像。絵筆を走らせざる得なかったその沸き上がる情動、僕にもやっとわかる歳になったのだろう。それは、朽ちてゆく黄昏時の知らせでもあるのだが。


ボクは息をのんだ。見慣れているはずなのに。。。一瞬、ジャック・ニコルソンとヘレン・ハントの主演映画「恋愛小説家」の、バスシーンが浮かんでいた。強盗事件の被害を受けたショックから、絶筆にいた、ゲイの画家役グレック・キニアは、偶然ドア影から見えた、バスタブに腰をかけ髪をまとめるヘレン・ハントの裸体に心奪わる。そのシーンだ。左手で湯と戯れる艶やかなS字の姿態。ほの明かりに映えた目映い白肌。素心の女体に魅せられた画家の絵筆は、ひとりでに走り出していた。。。

ルームサービスで食事を終えた後、いつもどおり湯船で四方山つかり愛、すっかり、なごみに潤ったリブは、ひと足先にバスを出た。浅くなった湯船で、ひとりぼんやり至福のいとま。そしてバスルームを出ると。。。ピクチャーウィンドーに広がる夜景のパノラマを前に、湯上りの火照てる余韻を楽しむかのように横たわるテーブルの裸婦。いつの間にか、昨夜の披露宴でいただいた引き出物だったウェッジウッドのキャンドルが灯されている。蝋灯りと街灯りにさらされて、嬉しそうに連なるカーブ。カメラは無心に撮りつづけていた。ボクは初めて女体のヌードを撮っている。いつまでも、うっとりと眺めていたい美景に酔いながら。。。 オカダ文庫「porn scapes」前文より。

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